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第24話 今さら遅いのです②

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-17 17:16:06

 扉の前で一度だけ息を整える。

 中から、食器の小さな触れ合う音がした。咳は聞こえない。少しだけ安堵し、同時に、その音に混ざる自分の居場所がないことを思い知る。

 ノックをする。

「……どうぞ」

 リュゼリアの声だった。

 扉を開けると、窓辺の光が柔らかく差し込んでいた。曇り気味の朝だが、南の別邸の光は王都のそれよりやさしい。卓にはひとり分の食事。リュゼリアは薄い灰色の室内着に、肩へ淡い青のショールを掛けて座っていた。顔色は相変わらず白い。だが昨日よりも目の焦点は落ち着いていて、夜のあいだ少しは眠れたのだろうとわかる。

 彼女はヴィルレオの姿を見ると、ほんの少しだけ目を瞬かせ、それから穏やかに言った。

「おはようございます」

 その口調の整い方に、ヴィルレオは一瞬だけ言葉を失いかけた。

 夫へ向ける朝の挨拶というより、館に滞在する客へ向ける朝の挨拶に近い。失礼はない。温度も低すぎない。けれど、その向こうに“待っていたもの”がない。

「……おはよう」

 返しながら、ヴィルレオは扉を閉めた。

 アイダは傍らに控えていたが、二人の気配を察したのか、すぐに小さく一礼した。

「茶を替えてまいり
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    「王都へ戻ったら」 ヴィルレオはゆっくりと言う。「屋敷のことを改める」 リュゼリアの睫毛が一度だけ揺れた。「……改める?」「ああ。帳簿も、人員の割り振りも、客の取り方も、食卓も」「食卓まで?」「お前に任せきりにしていたものを」 言いながら、自分の言葉がどこか必死で、どこか遅れているのを感じる。「これからは違うようにする。お前が」 そこまで言って、一瞬だけ喉がつまる。「お前が戻るなら」 リュゼリアの目が、静かに細まった。「戻るなら?」 その繰り返しが、やけに冷たく響く。「……そうだ」「戻ったら、変わると仰るのね」「変える」 ヴィルレオははっきり言った。「食卓も、朝も、屋敷の回し方も、お前が一人で抱えなくて済むようにする」 それは本心だった。 自分でも、ようやくそこまで言葉にできたのだと思う。もっと早くに知るべきだったし、もっと早くにそう言うべきだった。だが遅すぎるとわかっていても、黙ってはいられなかった。 けれど、その言葉を聞いたリュゼリアは、怒りも喜びも見せなかった。 ただ静かに、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。「……そう」 それだけ。 その反応の薄さに、ヴィルレオの胸はひどくざわめく。「リュゼリア」「今さら、遅いのです」 彼女は怒鳴らなかった。 静かな、あまりにも静かな声だった。 だからこそ、その一言は真正面から入ってきた。 今さら、遅いのです。 同じ意味のことを、彼女は前にも言った。だが今日のそれは、昨夜の“失った時間には届かない”よりもっと静かで、もっと決定的だった。「わたくしが欲しかったのは」 リュゼリアは続ける。「旦那様が“変える”と仰ってくださる未来ではなかったの」 彼女の指先が、卓の上で静かに重なる。白く、細く、かつて自分の食卓や屋敷の細部を整え続けた指だった。「欲しかったのは、もっと前の時間よ」 昨夜と同じ言葉。 だが今朝は、その先がもう少し深く続いた。「朝に、食堂で会うことを苦にしないでいられること」「……」「何かを言った時に、ちゃんと聞いていただけること」「……」「夜更けに遅くなった翌朝、少しだけ顔を見てくださること」 その一つひとつが、何でもない。何でもないはずなのに、今となってはひどく遠い。「そういうものが欲しかったの」 リュゼリアはまっすぐヴィ

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     扉の前で一度だけ息を整える。 中から、食器の小さな触れ合う音がした。咳は聞こえない。少しだけ安堵し、同時に、その音に混ざる自分の居場所がないことを思い知る。 ノックをする。「……どうぞ」 リュゼリアの声だった。 扉を開けると、窓辺の光が柔らかく差し込んでいた。曇り気味の朝だが、南の別邸の光は王都のそれよりやさしい。卓にはひとり分の食事。リュゼリアは薄い灰色の室内着に、肩へ淡い青のショールを掛けて座っていた。顔色は相変わらず白い。だが昨日よりも目の焦点は落ち着いていて、夜のあいだ少しは眠れたのだろうとわかる。 彼女はヴィルレオの姿を見ると、ほんの少しだけ目を瞬かせ、それから穏やかに言った。「おはようございます」 その口調の整い方に、ヴィルレオは一瞬だけ言葉を失いかけた。 夫へ向ける朝の挨拶というより、館に滞在する客へ向ける朝の挨拶に近い。失礼はない。温度も低すぎない。けれど、その向こうに“待っていたもの”がない。「……おはよう」 返しながら、ヴィルレオは扉を閉めた。 アイダは傍らに控えていたが、二人の気配を察したのか、すぐに小さく一礼した。「茶を替えてまいります」 それだけ言い、部屋の外へ出ていく。完全に二人きりではない。廊下の向こうに人の気配はあるし、必要ならすぐ誰かが来られるだろう。けれど、今この食堂の中にいるのは彼と彼女だけだった。「座っても?」 ヴィルレオが訊くと、リュゼリアはごくわずかに視線を上げ、それから頷いた。「ええ」 卓の向かい側へ腰を下ろす。王都の長い食堂ではありえなかった近さだ。ひとり分の食卓に、あとからもう一人が座っただけの距離。その近さが、逆にどうしようもなく遠く感じられた。 しばらく、どちらも何も言わなかった。 窓の外では、風が低木の葉を揺らしている。卓上の粥からは薄い湯気が上がり、ハーブ茶の香りがかすかに漂っていた。こういう朝の静けさそのものは、決して嫌いではない。だが、そこへ自分がどう入ればいいのかがわからない。 先に口を開いたのはヴィルレオだった。「昨夜は」 そこまで言って、少し言葉を探す。「……眠れたか」 問いとしてはあまりにも凡庸だった。だがリュゼリアは、責めるでもなく答える。「少しだけ」「咳は」「ありましたけれど、ひどくは」「そうか」 また沈黙。 会話は続いている。

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     その夜、ヴィルレオはほとんど眠れなかった。 東側の客室は暖かく、寝台も広く、火の落とされた暖炉の残り香さえ心を鎮めるように整えられていた。王都の大公爵家の本邸に比べれば質素だが、不足は何ひとつない。むしろ、余計なものがないぶんだけ身体にはやさしい部屋のはずだった。 なのに、まぶたを閉じるたび、昨夜のリュゼリアの声だけが繰り返し蘇る。 謝罪が欲しかったのではないの。 欲しかったのは、あの当時の時間だったの。 当時の時間。 その言葉は、刃物のように鋭かったわけではない。声も穏やかで、顔も穏やかで、ただ事実を述べているだけだった。だからこそ、逃げ場がなかった。 自分の謝罪は本物だった。 悪かったと、心から思っている。 何も見ていなかったことも、気づかなかったことも、当然のように彼女の整えたものの上でだけ生きていたことも、全部。 けれど、その本物の謝罪が、彼女の失った時間には何ひとつ触れられないのだと、昨日はじめて思い知らされた。 何も見ていなかった。 何も与えていなかった。 それをようやく知った時には、彼女のほうはもう、その何もない時間を何百も何千も積み上げ終えていたのだ。 夜半、外で風が少しだけ強くなった。湖のほうから来る冷えた空気が窓をわずかに鳴らし、その音でヴィルレオは寝台の上で目を開けた。薄闇の中、部屋の輪郭だけが見える。椅子。暖炉。机。整えられた寝具。どれも静かで、どれも少し遠い。 隣の部屋には、誰もいない。 南の別邸へ来てから、その事実を身体の奥がまだうまく理解していない。回廊を曲がれば彼女がいる。風の入る庭へ出れば、その細い肩が見える。だが、夜になれば彼女はもう自分の隣にはいない。夫婦としての距離ではなく、ただ同じ館の中にいるだけの距離にいる。 それが、こんなにも重いとは思わなかった。 ヴィルレオは寝台を出て、窓辺へ立った。空は暗い。雲が薄く流れ、月は見えたり隠れたりしている。庭の輪郭はぼんやりしていたが、南側の花壇のあたりだけは、昨夜見た白と青の小さな色がまだうっすらとわかった。 あの花は、もう彼女のものだった。 白いマーガレット。青いネモフィラ。土へ触れ、植え、咳き込みながらも「もう少しだけ生きたいわね」と零した彼女の時間の中にある花。 王都では与えられなかったものを、彼女はここで少しずつ自分で見つけ始めてい

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